2012年3月11日 (日)

巡り合わせ

突然ですが、結婚しました。



…。

かなりことばを端折りました。
正しくは、友人の結婚式に参加しました。



っていうか、

久しぶりのブログなのに、相変わらずなノリでホントすみません…。



友人の結婚式は、その人となりがよく現れた、あたたかみにつつまれた式でした。今まで、人の結婚なんてものは妬みの対象でしかなかった私が、人の幸せを願い、新郎新婦を見て「巡り合わせっていうのは本当にあるのだなぁ〜」と初めて感動したのです。


さて、友人の結婚式に出席した数日後に、とある女優の自伝を読んだのですが、その自伝を読んで、またもや「巡り合わせ」を感じた!というのが今日のお話です。

とある女優とは高峰秀子さん。

『二十四の瞳』の大石先生や、『浮雲』のゆき子を演じた、昭和を、いや、日本映画を支えてきた名女優です。

彼女の自伝『わたしの渡世日記』には、彼女の複雑な生い立ちから、養母との確執、幼くして映画スターとなり一家を養っていく苦悩…。そこには波乱とも言える人生が綴られています。

そんな逆境をバネにしてしまう前向きさと、持ち前の才能によって、映画界では大成功をおさめる彼女ですが、一家を養っていく重圧と苦労、そして幼い頃から映画界という堅気ではない世界で育ってしまった彼女なりの苦しみというものは相当なものだったのではないでしょうか。

そんな彼女にひとつの転機が訪れます。
それは木下惠介監督の『二十四の瞳』に出演した時のこと。木下惠介監督から、当時、助監督をしていた松山善三さんとの交際を勧められたのです。

当時、出演作のギャラが一本100万円という大スターの高峰秀子さんと、かたや月給12,500円の助監督だった松山善三さん。

交際を勧めた木下惠介監督でさえ、「ごめんなさい、こんな話をして、 バカバカしいと思ったら忘れて下さい。スターの秀ちゃんに、助監督さんとつき合えなんて、こんなこと言う人いないよね。バカバカしいよね、全く」と言ってしまったくらいでしたが、高峰さんは交際を快諾したのです。


『わたしの渡世日記』では、初デートのエピソードとして、不器用にフランス料理へ手を伸ばす松山善三さんをこう綴っています。

「ナイフとフォークを取り上げながら、私は感動していた。私の胸の中に爽やかな風が吹き込むような気がした。世の中に、こんな率直で素直な人間がいるのだろうか?いや一人居ることはわかった。」

幼い頃から映画界という堅気ではない世界で育ったてきた彼女にとって、堅気の人だった松山善三さんという存在は、新鮮で安らぎを感じる存在だったのかもしれません。

やがて、一年間の交際を経て松山善三さんとの結婚を決めた高峰秀子さん。
日頃敬愛していた川口松太郎氏に松山善三さんを紹介した時、川口松太郎氏はこう言ったそうです。

「驚いたねぇ、おまえ、あの男はまるでおまえの亭主になるために生まれてきたみたいな奴じゃねぇか、どこもかしこもさ、世の中うまくしたもんだ、と思ったよ、オレは」

川口松太郎氏は、生まれたときから親を知らず、若い時分はさまざまな仕事を経験しながら苦労して大作家となった人。「精神的スポンサー」と高峰秀子さんが敬愛する川口松太郎氏のおめがねに、松山善三さんが叶ったことを高峰秀子さんがどんなに嬉しく思ったことでしょうか。

そして、昭和30年3月26日。松山善三さんと高峰秀子さんは結婚。誠実を地でいく松山善三さんという伴侶を得て普通の生活をすることで、生まれてはじめて心の安らぎを得ることが出来たのではないでしょうか。高峰秀子さんの幼い頃から続いた渡世人生に安らぎが生まれた瞬間です。


ところで、月給12,500円の助監督だった松山善三さんですが、その後、映画監督・脚本家として、『名もなく貧しく美しく』や『典子は、今』などで活躍し成功をおさめます。

木下惠介監督は、高峰秀子さんに松山善三さんとの交際を勧めたとき、「人間はボクが保証します。 彼は将来必ず立派な仕事をする人間だと、ボクは信じているんです。つき合ってみてくれませんか?」と伝えたそうですが、木下惠介監督の松山善三さんに対する信頼は本物だったのです。

そんな木下惠介監督は、かつて高峰秀子さんが幼い頃に出演した『頬を寄すれば』という作品でボロボロと涙を流す高峰秀子さんを見て、当時カメラの助手だった木下惠介監督は演出家になることを決心したのだといいます。

巡り合わせとはこういうことを言うのだなぁ。と、しみじみ考えてしまいました。そして『わたしの渡世日記』を読み終えて、高峰秀子さんは松山善三さんと結婚してよかった!と心底思ったのです。


っていうか、私には巡り合わせがいつ訪れるのですか。


左から高峰秀子さん、仲人の木下惠介監督、夫の松山善三さん

左から高峰秀子さん、仲人の木下惠介監督、夫の松山善三さん

2011年10月 1日 (土)

一枚のハガキ

この人の辞書には「もう歳だから」という言い訳は存在しないであろう、99歳の現役映画監督・新藤兼人最新作『一枚のハガキ』を観ました。


戦争で生き残った松山啓太(豊川悦司)は、戦死した森川定造(六平直政)から生前に渡すことを頼まれていた一枚のハガキを定造の妻・友子(大竹しのぶ)へ届けに行きますが、友子は定造亡きあと朽ち果てた生活を送っていて…。

戦争にすべてを奪われた松山啓太と友子、二人の再生を描いたお話です。


なんとなく予想はしていましたが、ハガキを届けた松山啓太と友子はイイ仲になります。

友子を慕っていた泉屋吉五郎(大杉漣)という男がいたにも関わらず、友子が泉屋吉五郎をまったく相手にしなかったところをみると、

※ただしイケメンに限るようです。


そして、ヤケ気味に二人を祝福している泉屋吉五郎の姿がどこかユーモラスであり、

他人事とは思えなくて涙を誘いました。


『裸の島』を彷彿とさせる水汲みシーンを見るにつけ、『一枚のハガキ』に続く物語が『裸の島』だったりして!?なんて想像を膨らませながら、『一枚のハガキ』の話題をお届けしました。

2011年9月14日 (水)

『熱風』2011年9月号

この表紙いいね!


スタジオジブリが出している冊子『熱風』2011年9月号を読みました。


今号の特集は『日活青春映画』ということで、日活青春映画に関わった人達が当時を振り返る記事や、スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫さんと娯楽映画評論家・佐藤利明さんによる日活青春映画を語る対談、


そして、

吉永小百合さんが日活青春映画を振り返る記事キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

小百合さんの登場に浮かれているのは当ブログの仕様です。



とまぁ、日活青春映画好きにとっては申し分のない内容となっている今回の『熱風』ですが、個人的に見逃せないところがありました。

『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』というラジオ番組で、今回の『熱風』にも掲載されている鈴木敏夫さんと佐藤利明さんの対談が放送された回の、宮崎駿監督が実はサユリストではないか?という話が『熱風』だとカットされているではありませんか。


ある授賞式で小百合さんと同席した宮崎駿監督が、小百合さんに対して賞状の裏側へサインを求めたところ、「ご冗談を」と小百合さんにかわされ、宮崎駿監督が「俺は本気だったんだけどなぁ…」と、鈴木さんにつぶやくエピソードです。

でも、こんな話を載せたら宮崎駿監督からカミナリが落ちそうですし、カットせざるを得なかったのですね、多分。


何はともあれ、これだけ充実した内容の冊子を非売品として配布しているスタジオジブリに心から感謝しつつ、『熱風』2011年9月号の話題をお届けしました。

2011年8月22日 (月)

鞆の浦で宮崎駿の散歩コースを歩いてみた

私事で恐縮ですが…。
僕は宮崎駿監督に憧れて映画監督を目指している時代がありました。

おかげさまで、今は監督という名の付く職業をやっています。


しがないWebディレクターですが。

それも、ディレクターとは名ばかりの社内調整役です。


そんな悲しい現実から逃避すべく、夏休みを利用して、宮崎駿監督が『崖の上のポニョ』の構想を練ったと言われている、鞆の浦へ旅に出ました。


こちらのウェブサイトで紹介されていた鞆の観光案内を参考に、宮崎駿監督が鞆の浦に滞在している時の散歩コースを歩いてみようと思います。

まずは、『プロフェッショナル仕事の流儀』で宮崎駿監督が鞆の浦で滞在していた家を探してみることにしました。

しかし、あの家は見つからず(あとで見つけましたが、、、後ほど)、おまけ土地勘がないこともあって参考にした散歩コースの通りにいかず、


いつの間にかオリジナル散歩コースになっていました。


こんな建物が至るところにあります

明治〜昭和で時間が止まっている感じです…。


この路地良かったです

この路地を宮崎監督も歩いたのでしょうか?


常夜燈ー写りが悪くてスミマセン…

常夜燈(地元では「とうろどう」と呼ばれているそうです)。


写りが悪くてスミマセン

宮崎さんが滞在していた家(多分)丘の上にある一件家かと思われます。


楢村美術館

楢村美術館(なんか、ポニョに出て来た家っぽい)


そして、宮崎監督も歩いたという、山の上にある太子堂を目指します。
階段が多くてキツいけど


良いダイエットになりました。


歩くこと10分ほどで、太子堂に到着。そこにはポニョで描かれた海辺の街がありました。

この景色は感動しました


そして山を下り、村上製パン所という宮崎駿監督が滞在中に買っていたというパン屋であんぱんを買い、常夜燈で港を眺めながら食べました。

(゚Д゚)ウマー


気分だけは宮崎駿監督です。


そんなこんなで駆け足ではありましたが、宮崎駿監督の目線で鞆の浦を散歩してみた時の話題をお届けしました。

鞆の浦は歴史と奥行きを感じさせる街。次の目的地へ向かう時に乗ったタクシーの運転手さんが話してくれたのですが、鞆(「とも」と地元の人は呼んでいました)にはガイドにも載っていない歴史がたくさんあるのだとか。鞆の浦の歴史を紐解きながら、ゆっくりと街を歩いてみたいものですねぇ。

2011年7月23日 (土)

コクリコ坂から

今日はレイトショーでジブリの新作『コクリコ坂から』を観てきました。


近所に映画館があるので電車の時間を気にしなくていいのと、料金が安いという理由でロードショーものはレイトショーで観る僕。


レイトショーに行くと毎回思うのですが、、、


カップル率が高くありませんか?


本当に凹むのでリア充の人達は家で映画を観て欲しいです。どうせ映画なんてちゃんと観ていないのだし。


思い出すだけで悲しい気持ちになってしまいましたが、『コクリコ坂』はなかなか良かったです。

ゴローさんは日活青春映画を研究していたらしく、ところどころで古き良き日活作品っぽいところもあったような気がします。ただ、当時の日活作品がもっていた爽快感を感じなかったのは、演出家の資質によるもの?もしくは作品が作られた時代の差…!?

な〜んて考えつつ、『コクリコ坂から』の話題をお届けしました。




作品の話より、レイトショーでの悲哀について割合を多く割いているのは当ブログの仕様です。

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